あなたはもう、自分の人生の目的に出会いましたか?
そして、その目的を言葉にしていますか?いわゆる文章として明確にしているかということです。
人生の目的を持ち、それを言葉にすることが自分の人生に対して大きな影響を与えることは多くの人がすぐに想像できることだと思います。
人生の目的を持っている人は、どこか毅然としていて、他の人とは違った時間の流れで人生を突き進んでいるように見え、魅力的ではないかと思います。
ただ、人生の目的を持ち、言葉にして、それを活用している人はとても少ないのではないかと思います。
すべての人が人生の目的を実は持っているのですが、日々の現実に対応していくのに精一杯で、言葉にしておらず、認識できていないため、それを活用できていない人がほとんどです。
人生の目的は自分の人生の中に良い循環を生み出す、最大の武器なのにそれが使えていないのです。
とてももったいないことですよね。
自分の中にある想いや願いを、言葉にするかしないかの差だけなのに、人生に大きな差を生み出しています。
それでは、自分の人生の目的に出会い、言葉にするとどんな良いことがあるのかを見ていきましょう。
目次
1.人生の目的を言葉にすることが、自分の中に好循環を生み出す起点になる
結論から申し上げると、人生の目的を言葉にするということは、自分の中に良い循環を生み出すための起点をつくるということです。
人生の目的を言葉にするということは、あなた自身が意識的に質の高い人生を経営していくための第一歩です。
企業の究極の目的が「企業理念」ですが、私たちは、人生の究極の目的を「人生理念」と呼んでいます。
企業が自社を経営していく上での軸が「企業理念」になりますが、人が自分自身を経営していく上での軸が「人生理念」になります。
「人生理念」とは、どんな状況であっても大切にし続けたい自分自身の生き方・あり方のことです。
「こんなふうに生きたいなあ」「こんな自分になれたらうれしいなあ」「こんなことが実現できたら最高だなあ」という自分の心の底にある純粋な想いや願いです。
「人生理念」と言っても決して難しく考えることはなく、「いつも明るく、楽しくありたいなあ」とか「堂々とした生き方をしたい」「人や組織をもっと活き活きと輝かせたい」などの自分ならではの素朴で純粋な想いや願いです。
ただこの「人生理念」を明確にし、言葉にするかしないかで、自分の中に好循環が生まれるか、そうではないかの差が生まれます。
「人生理念」を言葉にし、自分の中心軸に据え、常に意識することによって、
①自分の内側からの自然なモチベーションが高まる
②現実を客観的に見られるようになり、不安や恐怖心が弱まる
③ひらめきや直観など、良い発想が生まれやすくなる
④言動に一貫性がうまれ、人から信頼されるようになる
⑤困難な状況の中でも、パワフルに行動できるようになる
上記のように自分の中に良い循環が生まれ、結果として自分が望んでいることを実現できるようになっていくのです。
2.人生の目的に出会った私の体験
それではここで私自身のことで大変恐縮ですが、私が人生の目的=「人生理念」に出会った体験をお話したいと思います。
人生の目的を言葉にするためには、まず自分の人生の目的に出会う必要があります。
今回は少し長くなりますが、私の体験をちょっと詳しくお話したいと思います。
私の体験を一般化するつもりはないのですが、一つの事例として参考にしていただければと思います。
私が人生の目的に出会った体験は、実は2回あります。
1回目は自分が勤めている会社がつぶれたとき。そして2回目は自分自身が死に直面したときです。
ちょっと特殊な体験なので、先ほど申し上げたように一般化はできないのですが、そのプロセスはヒントになるのではないかと思います。
①会社がつぶれたときに出会った人生の目的
私は、大学を卒業して、ある大手銀行系の不動産デベロッパーに就職しました。
都市開発の「開発」という言葉に惹かれたという単純な理由からです。
不動産仲介、富裕層向け投資用不動産の企画・販売、経営企画などを経験した後、人事に異動になりました。
その人事で仕事をしていたときに事件は起こりました。
もう20年以上前になりますが、1990年代の末に証券会社や銀行がバタバタと倒れた時期があったことをご記憶の方もいらっしゃると思います。
金融機関はバブル時代に土地を担保にした融資を拡大し、バブル崩壊による土地の値段の急落とともにその融資が不良債権化して、当時その処理しようがない膨大な不良債権を抱えたままになってました。
問題の先送りです。だれも将来のために腫瘍を摘出する外科手術を決断できる人がいなかったのです。
親会社の銀行は特に多くの不良債権を抱え、それを子会社に移すなどをしていたため、政治問題化し、銀行の幹部や私が勤めていた会社の代表も国会に証人喚問されるなど、事件化してしまいました。
親会社の銀行は結局は国有化になり、政府に国策としてつぶされることになり、関係会社も存続してはならないということになって、私が勤めていた会社も清算されることになりました。
親会社の銀行の経営不安が明るみになったのが、1998年の5月ぐらいで、その後親会社の銀行の国有化が決まったのが10月、そして関係会社である私が勤めていた会社が清算されるのがその翌年の5月ぐらいでしたので、私たち社員は会社の経営不安と清算という、「自分たちはどうなるのだろう?」という不安に約1年間さらされました。
政府が民間企業それも金融機関やその関連会社を救済するのではなく、意図的につぶす展開ですから、めったにないことだと思います。
やはり自分が勤めている会社がなくなるのではないかという状況は、とんでもない不安と恐怖の連続でした。
お先真っ暗という言葉がありますが、今思い出すと当時、本当に自分の視野が狭くなり、トンネルの中から現実を見ているように感じました。
今から思うと、すべてがモノクロ写真のように見えていたような気がします。
そんな不安の中で、私自身は目の前の仕事をするしかなく、自分たちの会社を存続させる方法はないか検討したり、社員への会社からの住宅融資を債権化したり、徐々に辞めていく社員の膨大な退職手続きに対応したりなどしていましたが、一方で会社の状況がどんどん悪化していく中で自分に対する多くの問いが出てきました。
深い内省状態に入ったんですね。
「会社がつぶれたら生活していけるのか?」「自分にとって家族とはどんな存在か?」「ホームレスは生きているけど、あれはどうやって生きてるんだろう?」「本当の幸せって何だろう?」「自分は本当に何がやりたいんだろうか?」というような問いがぐるぐると頭の中をめぐる中で、出口のない悶々とした日々が続きました。
そうした暗鬱とした日々が続いていたある日突然、「社員を路頭に迷わせることがない強い会社を、人事と言う立場からつくっていきたい!」という想いが強烈に立ち現れました。
本当に突然でした。
その時まで私は、人生の目的というものはなく、ただなんとなくうまく立ち回れればいいやぐらいの損得の世界にいましたが、突然自分が本当にやりたいことと思える人生の目的に出会ったのです。
その時に、本当に血が逆流したのではないかと思うような興奮とともに、喜びとも、モチベーションとも、エネルギーとも、パワーとも、何とも言えないような沸き立つ感覚を覚えました。
これが本当の内発的なモチベーションなんだろうなと思います。
まだ会社がどうなるかわからない、実際は不安が最高潮の時でしたが、この想いを得たときに、それまで自分の視野を狭くしていた黒い霧のようなものがパッと晴れて、「自分が会社を強くするための、対象となる会社を探そう!」というとても前向きな気持ちが出てきて、不安がほとんどと言っていいほどなくなり、「自分は何とかなる」という根拠のない自信がでてきました。
厳しい現実の真っ最中でも、人間は人生の目的を持つと、純粋に実現したいと思える想いを得ると、これだけ強くなれるんだなということをその時実感しました。
その直後、ある精密機械メーカーの人事のポジションを得て、18年間その会社を本質的に強くすることを目的に仕事をすることになりました。
ただ正直にお話すると、私のせいではないと思いますが、この会社はその後売上や利益率も高まり、上場も目指せるような数字的には強い会社になっていくのですが、チームワークや信頼関係などの本当の意味での組織力は逆に落ちてしまったと思います。
本質的に組織力を強化するためには、目的を中心にチームワークや信頼関係などの「関係の質」を上げていくことが大事であることを私自身がわかっていなかったこともありますし、うっすらわかっていたとしてもその大事さを経営陣に対してうまく伝えるだけの力や覚悟が私にはありませんでした。
それがとても心残りではありますが、ただ今の活動に生きている部分でもあります。
これが、私が人生の目的に出会った1度目の体験です。
②自分が死に直面した時に出会った人生の目的
今から約9年前、東日本大震災が起こる前年の秋のことです。私が48歳の時でした。
横断歩道の信号が赤に変わりそうになったので、小走りに横断歩道を渡ろうとした時に最初の違和感を足に感じました。
「あれっ?」という感じです。
その後あまり気にしてはいなかったのですが、徐々に歩きづらくなっていきました。足を引きずるように、前にだんだん進めなくなり、バスのステップを上がるのも苦労するようになりました。
腰に力が入らない感じがしてきて、とうとう歩けなくなりました。
その後腕もしびれてきて、ほとんど機能しないようになっていきました。
いわゆる自己免疫不全という病気だと考えられ、本来は外部から身体に入ったウイルスなどを攻撃する機能が自分自身を攻撃してしまうという病気です。
血液の中に自分を攻撃してしまう抗体ができて、自分の神経を攻撃してしまい、簡単に言うと神経がどんどんマヒしていって、脳からの信号が筋肉に伝わらなくなるのです。
ですから、まずは足、それから腕がだんだん動かなくなり、首から下がほとんど動かなくなり、自分では夜寝がえりもうてなくなりました。
ただ不思議なことに、首から上は普通に機能するのです。
思考は当然できますし、食事もとることができる。ということは内臓も機能しているということです。
始めは筋萎縮性側索硬化症(ALS)という死に至る超難病の診断を受けたのですが、その後そうでは無いことが分かりました。ただ、いまだに病名も原因もよくわかっていません。
結果から言うと、投薬治療が効いて、今は発病する前よりも元気な状態で活動しています。週末には20キロのジョギングができるくらいで、もしかしたら普通の人よりも健康な状態かもしれません。
ただ発病した当時は、どんどん自分の運動機能が失われていく、いくら検査しても病名も原因もよくわからないということで、本当に「自分はどうなっちゃうんだろう?」とまさに生きた心地がしませんでした。
最初に筋萎縮性側索硬化症(ALS)という診断を受けたときは、一度は死ぬことを覚悟しました。
不安や恐怖しかないような状態でしたが、じたばたしても始まりませんし、なるようにしかならず、毎日病院のベッドに横たわるだけの日々でした。
手足の運動機能はほとんど失われていましたが、さきほど申し上げたように首から上は正常に機能していて、頭はとてもクリアでした。
不思議な対比ですよね。
身体はほとんど動かないのに、頭ははっきりしている。大きな不安と恐怖の中で、私は自分を見つめざるを得ず、また深い内省状態に入ったのだと思います。
やはり多くの問いが浮かんできます。
「どうしてこんなことになっちゃったんだろうなあ?」「俺なんか悪いことしたかな?」「神様と言う存在がいるとしたら、どうして自分をこんな目に合わせるのかなあ?」などを無意識のうちに何度も何度も考えていたように思います。
そして、自分に意識が向くと同時に、自分の周りにも意識が向くようになりました。
入院するという経験は人生でも初めてだったので、主治医や研修医の先生方や看護師さんたち、一緒の病室にいる4~5名の患者さんたち、そしてヘルパーさん、食事を運んできてくれる人などなどに純粋な関心が向いていくと同時に、その関係を楽しんでいました。
主治医は毎日様子を見にきてくれて、声をかけてくれました。それはもちろん仕事だからやってくれていたことだと思いますが、そのわざわざ見舞ってくれる、声をかけてくれるという行為はとてもうれしかったし、励みになったことを覚えています。
やはり存在を忘れられていないということを確認できますし、話は少し横道にそれますが、職場でも上司がメンバーを毎日見舞うように声をかけることをすると、本当に良い人間関係の土台をつくることができるのではないかと思います。
そんな深い内省と周囲への感覚が研ぎ澄まされていく中で、「病気になるということは自分に何か良くない心がけや行いがあったからではないか?」という思い込みがあったのですが、実は同室の患者さんたちをよく観察するというよりも、カーテン越しに感じ取っていると「この人たちが何か心がけが悪くて、病気になったとはどうしても思えないなあ」という納得感のある感覚が生まれてきました。
何かピンとくるような、会得したような感じでした。
「病気というものが人間が何か悪いことをしたからなるものではないとしたら、神様はなぜ人間に病気と言う苦しみや困難を与えるのだろう?」と考えるようになりました。
まるで、海の中を静かに深く深く潜っていくような内省状態。心の世界。
そして、入院してから1カ月ぐらいたった時に突然、「そうか、神様は人間に困難を乗り越えて成長して欲しんだな!」という全く理由はないけれど、とても強い確信が生まれてきました。
その確信に出会った時、なぜか目をつぶったまま海底にがしんとぶつかったような、あるいは大木にぶつかったような振動を感じました。
心の深い部分が震えたのではないかと思います。
そして、「じゃ、自分は何をすることで成長していきたいのだろう?」と考えていたら、「全世界の人を幸せにしたい!!」という自分でも思ってもみない、とんでもない想いが込み上げてきました。
自分自身は、首から下が全く動かない状態なのに「全世界の人を幸せにしたいって?」
でもそれが自分の本当の想いであることは自分でよくもわかりました。「大それた想いが出てきてしまったなあ」という困惑と同時に、何とも言えないうれしさがあったことも覚えています。
このとき、人間はどんな状況下にあっても、自分が本当にやりたいことは現実の状況とは全く無関係に、厳然として存在するものなのだということを知りました。
これが人間の最大の強さ、すごさなのだと思います。
そして、「人を大切にし、幸せにしようとする中で、自分も成長していきたい!!」という想いがだんだんと強くなっていきました。
そして、その時はまだ自分で歩ける状態ではありませんでしたが、「絶対に歩いて家に帰る!」というのが目標になりました。
その後、治療やリハビリの甲斐あって、約5カ月の入院の後、自宅に帰り、仕事にも復帰することができました。
仕事に戻って、久しぶりに会った人から、良い意味で「別人のようだ」と言われました。
自分の本質ともいえる人生の目的=人生理念に出会ったことで、自分の殻のようなものが打ち壊され、本来の自分が現れたのかもしれません。
でもまだ問いは残りました。
「人を大切にし、幸せにしようとするなかで、自分も成長していきたい!!」という想いに出会ったのですが、「それじゃ、人を大切にするってどうゆうこと?」というのがその後数年間の私のテーマになりました。
そして、「人を大切にする」ということの私なりの答えは、「人を尊重し、その人を最大限に活かしてあげること」ではないかと思っています。
そのためには、「その人の人生理念を明確にし、言語化し、その人生の目的につながる目標を自力で達成するサポートがしたい!」と思い、コーチングの勉強し、コーチになり、今人と組織が最大限のパフォーマンスを発揮できるように、組織力強化のサポートをしています。
3.あなたが人生の目的と出会う方法
私が2つの体験で自分の人生の目的=人生理念に出会うことができたのは、少し特殊な状況で、深い内省状態に入り、無意識のうちに本質的な問いを投げ続けたからだと思います。
深い深いセルフコーチングをしていたということです。
ですから、あなたが人生の目的に出会う方法も、基本的には自分自身への問いかけです。
「自分は本当に何がしたいんだろう?」「自分はこの世の中をどうしたいんだろう?」「どうすれば人をもっと幸せにし、自分も幸せになれるんだろう?」などの根源的な問いを投げ、自分の心の底の素朴で純粋な想いや願いが浮上するまで考え続けることです。
では、人生の目的とは、「全人類を救済する」などの壮大なものでなければならないかというと、そんなことはありません。
「本当にそんな自分になりたい」「こんな状態を実現したい」と心から思うことができ、今の自分の器を大きくしていかなければ達成できないような想いや願いであれば、それが人生の目的になると思います。
今の自分の器を超えた目的。
人生の目的=人生理念があなたをリードし、器を大きくしてくれて、成長を促してくれます。
いわゆる、自分の中に良い循環が生まれるのですね。
人生の目的=人生理念を得る方法として、自分への本質的な問いかけ、深いセルフコーチングが必要とお伝えしましたが、あなたのセルフコーチングをサポートしてくれるのが、プロのコーチによるコーチングです。
あなたの器を大きくすることにつながる問いを投げてくれて、あなたが人生の目的やその実現につながる目標と出会うサポートをしてくれます。
自分自身で自分の問いと向き合ってみるとともに、プロのコーチングを試してみるのも良いと思います。
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